クレバーボランチの200試合出場までの歩み
2011年 11月 25日
10月19日に行われたロアッソ熊本戦で、J通算200試合出場を達成した本橋選手。さまざまな苦難を乗り越え到達した数字だが、本人はあくまで通過点と語る。そこに至るまでの本橋卓巳ストーリー。
栃木サッカークラブ
#13 本橋卓巳
【ポジション】 MF
【身長】181cm【体重】73kg
【生年月日】1982年8月3日
――野球では年間200本安打、通算200勝など「200」という数字は一流の証になっています。第6節の熊本戦(10月19日)でJ通算200試合出場を達成された時、どんな感情が沸いてきました?
特に沸いてこなかったですね(笑)。たくさん試合に出させてもらったなとは思いますけど、目標にしていた数字ではないですからね。気が付いたら200試合出場していた感じです。ひとつの通過点じゃないですかね。
――今季がスタートする前は通算195試合出場だったので、ある程度意識してシーズンに臨んだのかなと。
あと5試合だなとは思いましたけどね。個人の記録よりも「チームの目標を達成したい」という思いの方が強かったですね。
――引退してから振り返るものですか?
そうですね。その時の方が、実感が沸いて来るかもしれないですね。現役を続けている限り300試合、400試合と試合出場を重ねても、それほど意識はしないんじゃないですかね。
――200試合出場を達成する前には「皆さんに感謝したい」と仰っていましたが、一番感謝したいのはご家族ですか?
一番、身近な存在ですからね。嫁と子どもには感謝してます。過去に携わった関係者やサポーターにも同じ思いを抱いています。
――今季は怪我に苦しんだと思います。治りかけた怪我が再発した時期には、ネガティブな感情が芽生えたのでは?
怪我を繰り返した時期は、さすがにナーバスにはなりましたね。「どうしてなんだろう」と。でも、結局は自分で立て直すしかないし、くよくよしていても何も起こらないですからね。「やるべきことをやって乗り越えよう」と気持ちを切り替えました。
――プロキャリアをスタートさせたのは横浜F・マリノス。マリノスの先輩である松田直樹さんが突然この世を去るショッキングな出来事もありました。
今年の宮崎キャンプでは松本山雅とトレーニングマッチで対戦して久々に話しもできましたし、山雅には貴之(船山選手。栃木から松本に期限付き移籍中)が移籍したし、知り合いも多かったので勝手に親近感は持っていました。そんな中、あのような事が起こってしまったので……マツ君にはお世話になったし、あの訃報はショックでした。マリノスは高校を卒業して一番最初に加入したクラブなので、マツ君にもスタッフの方々にも感謝しています。
――怪我や悲しみを乗り越えて先発復帰した熊本戦ではメモリアルゲームで勝利を飾りました。
200試合よりも、チームが苦しんでいたので助けられればと思って試合には臨みました。久々だったので最後はきつかったですけど(笑)、勝っていたので気持ちで乗り切ることが出来ました。
――マリノスでプロデビューしてから、ここまでキャリアを積めると想像できましたか?
長くプレーできればできるほどいいなとは思っていましたけど。プロ3年目までは、まだプロの厳しさを分かっていなかったし、いま振り返ると「もっとやっておけば良かったな」とは感じますね。ちょっと意識が足りていなかった。もっと自分を追い込むことをしても良かったのかなとは思いますね。
<つづきはもんみや12月号で>
文・写真 大塚秀毅
栃木サッカークラブ
#13 本橋卓巳
【ポジション】 MF
【身長】181cm【体重】73kg
【生年月日】1982年8月3日
――野球では年間200本安打、通算200勝など「200」という数字は一流の証になっています。第6節の熊本戦(10月19日)でJ通算200試合出場を達成された時、どんな感情が沸いてきました?
特に沸いてこなかったですね(笑)。たくさん試合に出させてもらったなとは思いますけど、目標にしていた数字ではないですからね。気が付いたら200試合出場していた感じです。ひとつの通過点じゃないですかね。
――今季がスタートする前は通算195試合出場だったので、ある程度意識してシーズンに臨んだのかなと。
あと5試合だなとは思いましたけどね。個人の記録よりも「チームの目標を達成したい」という思いの方が強かったですね。
――引退してから振り返るものですか?
そうですね。その時の方が、実感が沸いて来るかもしれないですね。現役を続けている限り300試合、400試合と試合出場を重ねても、それほど意識はしないんじゃないですかね。
――200試合出場を達成する前には「皆さんに感謝したい」と仰っていましたが、一番感謝したいのはご家族ですか?
一番、身近な存在ですからね。嫁と子どもには感謝してます。過去に携わった関係者やサポーターにも同じ思いを抱いています。
――今季は怪我に苦しんだと思います。治りかけた怪我が再発した時期には、ネガティブな感情が芽生えたのでは?
怪我を繰り返した時期は、さすがにナーバスにはなりましたね。「どうしてなんだろう」と。でも、結局は自分で立て直すしかないし、くよくよしていても何も起こらないですからね。「やるべきことをやって乗り越えよう」と気持ちを切り替えました。
――プロキャリアをスタートさせたのは横浜F・マリノス。マリノスの先輩である松田直樹さんが突然この世を去るショッキングな出来事もありました。
今年の宮崎キャンプでは松本山雅とトレーニングマッチで対戦して久々に話しもできましたし、山雅には貴之(船山選手。栃木から松本に期限付き移籍中)が移籍したし、知り合いも多かったので勝手に親近感は持っていました。そんな中、あのような事が起こってしまったので……マツ君にはお世話になったし、あの訃報はショックでした。マリノスは高校を卒業して一番最初に加入したクラブなので、マツ君にもスタッフの方々にも感謝しています。
――怪我や悲しみを乗り越えて先発復帰した熊本戦ではメモリアルゲームで勝利を飾りました。
200試合よりも、チームが苦しんでいたので助けられればと思って試合には臨みました。久々だったので最後はきつかったですけど(笑)、勝っていたので気持ちで乗り切ることが出来ました。
――マリノスでプロデビューしてから、ここまでキャリアを積めると想像できましたか?
長くプレーできればできるほどいいなとは思っていましたけど。プロ3年目までは、まだプロの厳しさを分かっていなかったし、いま振り返ると「もっとやっておけば良かったな」とは感じますね。ちょっと意識が足りていなかった。もっと自分を追い込むことをしても良かったのかなとは思いますね。
<つづきはもんみや12月号で>
文・写真 大塚秀毅
by monmiya-st
| 2011-11-25 19:35